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ドアチェーンの向こうから懐かしい匂いがした

「ミズ・アラルディ。おみやげもってきましたよ」
嗅覚にはなにも訴えないが、今までの経験則がそれを伝えている。
体臭の少ない東洋人の中でも更に体臭の少ない男だし、返り血を浴びることなど稀である。
そしてイグニッションカードという利器は惨劇の痕跡を冗談のように覆い隠してしまう。

嗅覚が感じるのは、お土産物の包装特有の紙のにおい。

「何かやってきたの?」
「お仕事でした。」
「そう。」

彼とはこんなに身長差はなかったような気もする。
・・・早いもので一年以上が過ぎていた。
普通の人間として暮らすことは幼い時分にあきらめたつもりなのに、そんな幸せはひょんなことから転がり込んできた。
日常の中でいろんなことを忘れるが、時折こうやって誰かが昔の空気を連れてくる。
自分の部屋の匂いに名がつけられないように、名前のない昔の空気。
いうなればそれは、冷えて乾燥したコンクリートにも似た無機質な匂い。
心音の抜け落ちた情報のみが空間を満たし、そこに矢弾と刀が踊り死を撒き散らす。
血腥いと評するほどの感慨すらそこにはなく、それは血液の匂いでしかない。

「えっと・・・」

黙り込んだ私に反応をとりあぐねた彼が声を出す。

「お茶くらい飲んで行きなさい。」

一度扉を閉めて、チェーンを外す。
再び扉を開けて迎え入れる。

多分私は誰であろうとこうやって迎え入れる。
多分、それが、誰であっても。

顎でガラステーブルのある茶の間を示す。
それに答える一礼に続いて、靴を脱いだ彼が短い廊下を私とすれ違う。

人というものは歩くときに衣ずれと骨や筋肉の軋む音がする。
それが静かな場所であればなおさらだ。
筋肉を身につけ、常時身を緊張させるものほどそれが鳴る。
どちらかといえば私もよく鳴る方だが、この男は奇跡のように「普通を装っている」。

せいぜい踵が一回鳴っただけで、あとはまるっきり普通なのだ。
その音を断ち切ることさえできる男が。

「怪我の調子はどうです?妙な時に押し掛けて申し訳ないです。」
「いいわよ。戦争の前の日の夜中にいきなり電話かけて長々と世間話だけして切った奴もいるもの。それにくらべりゃいくらかマシだわ。」

むろん彼を売ったことに対する痛む良心はとっくに捨てている、それでも体は痛む。
体内の白燐蟲の絶対量はガタ落ちだし、それも体の維持と損傷した体組織の再構築に回っている。
普通なら激痛でのたうちまわって寝込んでいても不思議ではない。

ただ、まあ、悪しざまに追い返すほどのこともない。
コーヒーを淹れてテーブルに戻ると、扉に近い場所に座っていた。
下座、だったか。
よく日本の文化を覚えたものだとおもう。
皿の上の肉を切るより容易く人を斬れる男が。

「もっと奥に座ればいいのに。」
「なんとなくですよ。」
「そう。」

お茶を出し、受け取ったお土産の封を切る。
くるみゆべしとかいてあった。どこへ行ったというのだろう。
そもそもこれはなんなのか、どこのものなのかも私はよく知らない。

自分でひとつとってから、たべなさいと彼に箱を出す。
いただきます、と言って箱からよくわからないものがとられる。

「最近よくしゃべるわね。」
「日本語は得意になりました。」
「変わったことはある?」
「特に何もないですね。」

そこで話題が切れる。大体こんなものだ。
二人してくるみの味がする、餅のようなシロモノを口に運んでは噛み砕き飲み込む作業に終始する。

「ところで」

口を開いたのは私からだった。

「将来どうするとか決まってるの?」
「いやそれがなにも。とりあえず大学でも行こうかと。得意教科もやりたいこともないんですけどね。
 とりあえずビジネス系の学科でもいこうかと。」

この超然とした男からこうも下世話な話が出るとは。
思わず噴出す。

「何かおかしなことでも。」
「ううん、普通のことを言うものねと。」
「僕は普通ですから。」

そう、普通だ。
全く取るに足らない、タダの平凡な日常を送るタダの学生。
それ以外の何者にも見えない。
そんなモブでしかない、人ごみの成員の一人。であるからこその脅威なのだ。
彼はその脅威を自認しているのだろうか。

「……別にまちがっちゃいないけど、仕事は?」
「学生しながらでもいけると思いますよ。多分。寧ろ無職のほうが疑われちゃいます。
 学費が稼げるくらいに働きはしますよ。」

やめるという選択肢が端からないように思えた。

「ミズ・アラルディ?」
「うん、そうね。」
「ところで今のご質問をそっくりお返ししたいのですが。」
「教えない。」
「秘密の多い人だなあ。まあ、僕みたいにあんまりぺらぺら喋っちゃうのも重みがないですけど。」
「誰も本気にしやしないのよね。」
「ええ、そのとおりです。嘘がつけないんですけどねえ。」
「知ってるわよ。」

大概が真実か、黙秘か、あるいは世辞だ。
初めて出会ったときと変わらない。
変わったことといえば世間知がついたくらいで、
それは本当にタダの人間であると錯覚させかねない何かでしかない。
日に日にこの殺戮機械は脅威を増していく。

ただ、それを恐れるほどに私はヘタを打ってはいないし、
油断するには力量が足りなかった。

「ところでシサン。」
「はい。」
「これをあげる。」

私がポケットから取り出したのはコンセントに取り付けるコーナータップ。

「はあ、なんでしょうこれ。」
「地理に疎い昼行灯の忘れ物。仕事のときにでも返してあげて。」

今日び引っかかるのは危機管理能力に乏しい一般市民か、さもなければ役人くらいだ。
聞き耳を立てている姿は想像だに吐き気を覚える。
が、男子高生にこれが渡って頭をかきむしる様を思うと心が躍った。

「……はい、了解しました。預かっておきます。無力化は……」
「そのままにしておきなさい。但し扱いには気をつけて。」

そこで私は漸く、彼に笑顔を見せて笑った。
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